[第84話]業務報告は郵便はがきで 今日も石油が湧き出ています

 明治時代のはじめ、石油の需要は、ランプ用の灯油でした。しかし、近代工業の進展とともに軽油や重油、ガソリン、機械用の潤滑油などさまざまな石油製品が必要とされるようになっていきました。新潟県内には、石油を掘削する会社や石油を精製する会社が多く設立され、その需要に応えました。

 柏崎町(注1)に小さな石油会社がありました。そして、石油を掘削している鉱区があった中頸城郡はっさき村(注2)から柏崎町の会社へ、毎日のようにはがきによる業務報告がされています。この石油会社には日々の業務をまとめた業務日誌があります。しかし、その冊子とは別に現場からの日々の報告が郵便はがきとして残っています。概ね1日1枚で、中には急報、再報と書かれていて同じ日付のはがきが2枚ある日もあります。

 鉢崎村の現場には3本の油井ゆせいがあり、日々の原油採掘量がはがきで報告されています。明治39年(1906)12月、鉢崎村の1日の平均採掘量は約1.1石(約198リットル)でした。同年の新潟県の年間原油採掘量が648,544石(117,000キロリットル)(注3)で、採掘量が多いのは古志郡、刈羽郡、中蒲原郡でした。365日採掘できたと考えても、県全体から見ると鉢崎村にあった油井は小規模であったようです。それ以外にも、「原油を昨日貨車に積みました」「掘削機械のベルトの滑り止めに松ヤニを大量に消費したので、壱番列車で送って欲しい」など会社への連絡も書かれています。会社のあった柏崎と現場である鉢崎を行き来する人物の名前も登場します。この石油会社では、人の移動や物資の輸送は北越鉄道(注4)を利用していました。はがきと日にちは違いますが、鉢崎駅から柏崎に向けた原油を詰めた鉄缶など貨物を送ったことを示す貨物発券も残されています。それによると「原油缶詰262本」を鉢崎から柏崎に送っています。

 はがきで報告する担当者が決まっていたのか、その人物がいないため代筆する、と書かれているはがきもあります。また消印を見ると受け付けられた時間帯は一定ではなく、報告日の次の日の場合もあります。なぜ郵便はがきで業務報告をしていたかは分かりませんが、明治時代の石油採掘現場の日々の動きを知ることができる興味深い資料ではないでしょうか。

注1、2は現在の柏崎市。
注3 『新潟県史』資料編17近代五P358「都市別原油採掘高」より
注4 明治30年(1897)に開通した鉄道で、現在の信越本線直江津-新潟間。鉢崎駅は、その後改称され現在は米山駅となっている。

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【3月5日の業務報告のはがき】(請求記号E0307-1-70)

貨物送券
【貨物送券】(請求記号E0210-245-4-7)